2008年5月29日 (木)

■ 後藤寿庵祭

2008_mizusawa001_3 田植えも一段落した5月25日(日)、カトリック水沢教会主催の「後藤寿庵祭」が行われました。
昨年の市町村合併により、これまでの「水沢市」が「奥州市水沢区」となって初めての「後藤寿庵祭」でした。
この日は朝から雨で、いつもは寿庵廟前の広場の会場は「胆沢平野土地改良区」の建物に変更されました。
通常、お祭りと言うと、雨が降ると「あいにくの雨模様で……」などと、あいさつし合うのですが、さすが「寿庵祭」と感心したのは、「この雨は寿庵さまに似つかわしいですね」とか「(静かに降る今日のような雨は、)稲のために、いちばんいい雨ですね」とお互いがあいさつなさっていたことでした。
例年、春の祭りは教会主催、秋の祭りは地域主催で行われる「寿庵祭」ですが、150人の参加者の内、約50人が地域の方々で、共にミサに参加し、寿庵についての講演を聴きました。

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             会場となった建物              ミサの風景と寿庵祭の旗

カトリックの最大の祭りは「ミサ」です。午前10時から、平賀徹夫司教の主司式によるミサが始まりました。
ヨハネ福音書の「友のためにいのちを捨てること、これより大きな愛はない」という箇所が読まれた後、つぎのような説教がありました。
「私たちは寿庵祭を開いて、水沢の地に灌漑工事をし、農民を助けたという寿庵の大きな業績を顕彰するだけではありません。彼が人々のために自分の命を捨てるほどに愛したという、その愛を顕彰するのです。
今年、11月24日にペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われますが、ペトロ岐部司祭は迫害の嵐が吹きすさぶ日本に帰り、命を捨てるより大きな愛はないことを示しました。彼は、水沢の信者を助けていましたが、1633年水沢で捕らえられ、翌年江戸で殉教した人です」。

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説教の後、田畑と参加している大地の人々に祝別が、香と寿庵の十字架と聖水で行われました。しかし、雨のため、田畑に向かって窓からの祝別でした。
このような祈りが唱えられ、祝別されました。
「全能、永遠の神よ、あなたは忠実なしもべ後藤寿庵を、胆沢平野の偉大な開拓者として私たちに与えてくださいました。私たちは今日、後藤寿庵ゆかりの地に集い、心を合わせてあなたに祈ります。どうか、農家の一人ひとり、作物の一つひとつの命を守り、育み、豊かな実りをお与えください。そして、その実りが私たちの心と体の糧となり、一人ひとりの命の輝きが増していきますよう、私たちの主、イエス・キリストによってお願いいたします」。
その後、土地の祝福を主に願い、落雷、暴風雨、水害、冷害、干ばつ、火災などの災害から守られるように、祈りをささげました。

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               奥州市市長                     安彦公一氏

来賓のあいさつでは、奥州市長など4、5人が祝詞を述べられましたが、どの来賓も、寿庵を深く尊敬して、寿庵のおかげで今日の我々があるという感謝の心が感じられました。特に、寿庵が1612年に、福原の地に来られたことを記念し、4年後には400年祭を企画しているという話も紹介されました。
講演は、郷土史家でもあり、胆江日々新聞社取締役編集長・安彦公一(あびこ きんいち)氏。
2008_mizusawa008 「今日は、歴史的にハッキリしていることだけをお話しいたしましょう」、と石母田文書と言われる中に残されている寿庵について書かれている4通の手紙を中心に話されました。
当時、伊達藩は、四公六民(収穫物の4割を税金に納め、6割が農民の取り分)が実施されたいましたが、水沢では寿庵がその税をさらに軽減しており、寿庵の後に赴任した横沢将監が、「どういたしましょうか」と城主である石母田大膳に、手紙で尋ねています。
どんなに、農民のことを思っていたかがわかります。当時、紀伊藩では、八公二民で、民は苦しい生活を強いられていた例もあるのです。
さらに、寿庵は胆沢平野の灌漑工事のために、お金が必要だったのですが、税金を高く取り立てようとは思わず、自分が方々から50両のお金を借金していました。ところが、迫害が激しくなり、人々が尊敬する寿庵を逃しました。そのため、50両の借金がそのままになっていたのですが、ある夜、50両を持たせて、寿庵の後任の横沢将監に届けています。どこかで、寿庵が50両を得て、返却したのです。
たぶん、これは寿庵が鉱山で働いて得たお金ではないかと想像されるそうです。その鉱山は、大籠あたりの鉱山かもしれないとのことでした。2008_mizusawa009_4
すべての行事が終わり、雨のちらつく中、寿庵廟や、ペトロ岐部が逮捕されたクルスバ墓地とその周辺を歩いてきました。クルスバ墓地は、寿庵の時代には、キリシタンの墓地だったのですが、迫害の時代になり、お寺の墓地となり、名前だけは「クルスバ墓地」として残っているものです。この近くに流れる小川に架かる橋の上で、ペトロ岐部が逮捕されました。彼はそこから江戸に送られ、殉教したのです。
寿庵たちが、福音を信じるものたちの地にしようと、「福原」と地名を変え、灌漑工事に励み、「アラビアの砂漠」に似ているとカルバリオ神父が述べたと言われる胆沢平野を現在の穀倉地帯に変えたのでした。
寿庵が逃がされた時、カルバリオ神父は秋田の鉱山に逃れ、そこにいる多くのキリシタンたちを助けていましたが、ついに逮捕され、仙台に送られ、広瀬川で殉教したのでした。
こうして、牧者のいなくなった水沢の地に、ペトロ岐部が信者に秘跡を授け、羊の世話をするためにやってきて、働いていたのですが、クルスバ近くの橋の上で、とうとう逮捕されてしまったのです。

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2008年4月24日 (木)

■ 森のキリシタンメン

Dscf1853 宮城県の登米市(とめし)に、殉教の地があると聞き行ってきました。
ここでは、あちこちに「キリシタンの里」という文字を見ることができます。市の歴史的文化財とし、毎年6月の第1日曜日には「キリシタンの里まつり」が、地域の行事として、東和町で行われています。もちろん、野外ミサが行われ、近くの綱木農村公園では、野外コンサート・ふるさと伝統芸能大会・農産物の販売、「魚のつかみ取り」なども行われるそうです。
案内をしていただく地元の歴史研究家の方と信徒の方との待ち合わせのために、東和町にある道の駅「林林館」に行き、ここで昼食をいただきました。
いろんなメニューがありましたが、私たちの目に飛び込んできたのは「森のキリシタンメン」。「キリシタン」と「タンメン」をかけてこの名がついたとのことでした。山の幸が盛りだくさんのおいしい塩タンメンでした。
食べ物にまで、その名がつけられるなんて、殉教者のことが忘れ去られることなく、町ぐるみで大切にされているようで、とてもすてきなことだと思えました。
東和町と大籠のキリシタンについては、“Laudate”でまたご紹介します。
皆様も、東和町に巡礼された際は、道の駅「林林館」でぜひ「森のキリシタンメン」を味わってみてください。

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2008年4月21日 (月)

■ 戒名のない卵頭墓石

Kounji_1 静岡に耕雲寺という禅寺があります。この寺には、「戒名のない卵頭墓石」が残っています。その墓は、キリシタンであった原主水を助けたために処刑されたこの寺の2代目の住職の墓です。
この話を聞き、自らが信じ生きる仏の道を全うするため、禁じられた違った宗教であるキリスト教を信じ、罰せられ自由に動くこともできなくなった原主水を助けようとした僧の姿に感動し、この寺を訪ねました。
寺の石段を登って行くと、すぐにお寺の方だとすぐにわかる女性から手招きされました。「持って行きませんか」と言われ、何かよくわからずにいると、「袋を持っていますか?」と尋ねられ、持っていないと答えると、中に入ってすぐにビニールのさげ袋を持ってきてくださいました。
「どうぞ好きなだけ持もって行って、マーマレードにでもしてください」とのこと。見ると、立派なみかんがたくさん篭に入っていました。
見ず知らずの私たちに、何も聞かずに収穫したばかりのきれいなみかん(甘夏でしょうか)をわけてくださったのです。
今も、原主水を助けた住職の心が受け継がれているようで、心温まる思いでした。

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2008年4月13日 (日)

■ 旅先でのやさしさ

Sizuoka_01 札の辻で殉教した原主水の取材ため、主水が徳川家の旗本として過ごし最初に捕らえられた静岡を訪ねました。
静岡教会には、原主水の銅像があると聞き、電話で連絡して教会を訪ねると、転任されたばかりの主任の林神父と濱田神父が待っていてくださいました。銅像の写真が撮りやすいようにと大雨の中、車を移動してくだり、教会の歴史の資料なども準備してくださっていました。
静岡教会の取材の後、濱田師は、車で20分以上も離れた明治時代に建てられた歴史ある谷津教会に、林師は銅板に書かれた当時の地図のあるところまで案内してくださいました。地図の中の原主水の家をわざわざ探して見つけてくださっていたのです。
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大雨でびしょ濡れになりなんだか心まで冷え切っていましたが、お二人のやさしさに力をいただきました。
神の愛やいつくしみは、けっして難しいことではなく、隣にいる人へのこうした思いやりなんだなと教えていただきました。
ありがとうございました。
静岡教会と原主水については、また“Laudate”でご紹介します。

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2008年3月26日 (水)

■ 信徒のガイド

Guide_1 「平戸・佐世保モニターツアー」の第3弾です。
今回は、このツアーのすてきなガイドをご紹介しましょう。
観光ボランティアガイドをご存じですか。自分の住んでいる地域を案内してくれるボランティアガイドです。今回のツアーでは、平戸と黒島で、ボランティアガイドの方が案内をしてくださいました。お二人とも、カトリック信徒で、教会の歴史や生きた信仰生活を交えながらのガイド、とても感動しました。
最初に回った平戸は、宝亀教会、紐差教会、生月の殉教地と山田教会、そして平戸のザビエル記念教会と教会めぐりと言ってもいい旅でした。共に聖歌を歌い、教会の基礎を築かれた神父の秘話など、巡礼の言葉にピッタリのガイドでした。
そして、地元ガイドのいいところ、お寺の中を通り抜けたりと楽しい案内もありました。
Guide_2 黒島では、案内していただく間に、なんと 亡くなられた聖パウロ会の神父のご親戚の方とわかり、思い出話に盛りあがりました。
信徒の方は、観光客の方たちに案内をしながら、カトリック教会を紹介するというすばらしい宣教をしておられました。

観光ボランティアガイド:http://www.jrkyushu.co.jp/tokyo/guide/nagasaki.html

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2008年3月19日 (水)

■平戸まち歩き2

「平戸まち歩き」の第2弾です。引き続き、今も歴史の色濃く残る、平戸の町をご紹介しましょう。
教会の見える坂から、寺院を通り次の坂道に抜けました。道ぞいにいくつもお地蔵様がある坂を下って行くと、石畳が敷かれた道「延命町」に入ります。ここは蘭英貿易のころ、多くの貿易商が軒を並べた通りで、1600年代のメインストリートです。かつて、この一間先は海でした。お地蔵様がたくさんあるのは、やはり浮橋主水事件の影響だそうです。この通りに、江戸初期の貿易商川崎屋の庭に茂っていた大蘇鉄があります。樹齢400年を超えるのこの木は、枝があまりにも大きいため、何カ所も支えがしてありました。この蘇鉄の幹にはいくつもの釘が打たれていた。それは、昔蘇鉄に釘を打つと、歯の痛みがとれると信じられていたためです。
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Hirado_203 平戸に最初に入ったのは、明(中国)でした。そのため、この界隈にはたくさんの明人が住み、その名残と言える「六角井戸」が残っています。
さらに下って行くと、左手の丘の上に、平戸や松浦家の歴史を物語るもの約300点が展示されている松浦史料博物館があります。
この資料館に入るために、石畳の階段があります。この階段が何とも不思議なことに、両側の階段が段差がかなり高いのです。その理由を聞いて驚きました。この段差の高い階段は、殿様が馬に乗ったままこの階段を使って上って行ったためだそうです。この史料博物館の建物は、廃藩置県の際、殿様の住居として作られた「鶴ケ峯邸」です。そして、石垣は桃山時代のものと聞き、その歴史の深さにさらに驚かされました。
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入り口には、オランダとイギリスの国旗が掲げられていました。これは、オランダ商館とイギリス商館があった名残だそうです。
ちょうど私たちが訪れた時、「平戸温泉城下雛まつり」(2月15日~4月3日)が行われていましたが、この松浦史料博物館には、松平定信の娘秦姫が、松浦家代35代熈(ひろむ)に輿入れした時に持参しためずらしい雛人形が展示されていました。この雛人形は、細かい細工のされたたくさんの道具のついたものでしたが、雛人形はとても小さなものでした。これは、節約がうたわれた時代であったためだそうです。
また、受胎告知の描かれたオランダ鉢が展示されていました。激しい切支丹迫害の中、よくこのようなものが残ったものだと驚かされました。
海岸の近くに、「うで湯・あし湯」と書かれた、無料の平戸温泉がありました。あし湯には、小さな座るための貸し出し用の畳も用意されていました。時間がなかったので、うで湯だけ体験しましたが、ほんの少しだけお湯につけていただけで、手がすべすべになりました。近所の店には、タオルが販売されていて、何も持たずに行っても「うで湯・あし湯」を利用することができます。まち歩きに疲れた足を休めるには、絶好のポイントかもしれません。

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2008年3月15日 (土)

■平戸まち歩き1

Hirado_101_3 ご招待で、「平戸・佐世保モニターツアー」に行ってきました。
平戸は、フランシスコ・ザビエルも鹿児島に滞在した後、訪れています。当時、平戸にポルトガル船が入港し、ザビエルは手紙を受け取るために訪れたと言われています。
また、その後、オランダ商館とイギリス商館も開設され、長崎の出島ができる前に世界に開かれた港町だったそうです。そのため、豊かな歴史の足跡が町のいろいろな所に残っています。
寺院と教会が一枚に収まった平戸の写真は、こんな歴史の一面を見せてくれます。
まず、平戸ザビエル記念教会にバスで行き、そこから坂をくだりながら、「平戸まち歩き」を楽しむことになりました。
山の一番上にあるカトリック教会、その下に松浦家の菩提寺があり、さらにその下に寺院があります。現在は城の空堀跡に石畳が造られ、道となっています。風情のある坂道を下って行きながら、上を見上げると、寺院と教会の屋根が重なりあい、なんとも不思議な美しい景色です。
なぜこんな景色となったかについて、おもしろい話を聞きました。
Hirado_102 昔は殿様がなくなると、近臣は殉死するのが通例でした。平戸を治めていた松浦藩の28代隆信(宗陽)には、浮橋主水(うきはし もんど)という家臣がいました。彼は、隆信に非常に寵愛されており、「殿が死んでは、生きていくことができない」といつも言っておりました。しかし、1637年隆信が亡くなっても、旧慣に従って当然殉死するどころか素知らぬ顔の浮橋主水を見て、平戸の人々は「キラズ(切らず)主水」と言い、嫌いました。すると主水は、隆信の母メンシア松東院がキリシタンであったため、1639年、徳川幕府に「平戸は切支丹大名である」と密告しました。浮橋主水事件です。
そこで、幕府は江月和尚をキリシタン検問使として平戸に派遣しました。松浦家の懇意な間柄であった江月は、寺を建てさせ、松浦家が、キリシタンでないことを幕府に証明しました。浮橋主水は伊豆に流罪となり、この事件は終わりました。
隆信の跡を継いだ鎮信(法印)は、松浦藩が切支丹でないことを証しするために、平戸が島であったため、港からよく見える場所にいくつも寺を建てました。また、切支丹に対してきびしい弾圧を行いました。Hirado_103
一番上に教会があるのは、何も寺院の上に教会を建てたかったわけではありません。平戸のザビエル記念教会は、1931(昭和6)年に献堂されました。当時の早坂司教は、宗教が自由になった後この地で宣教を続けたパリ外国宣教会の宣教師たちが、丘の上のよく見える場所に教会を建設したことに倣い、平戸の町にも、山の上のよく目立つ場所に建てることを考えました。そして、墓の上の地であるために、建物が建てられなかった現在の教会の場所が、信徒の畑であったため、その地を譲り受け、教会を建設したのだそうです。
坂の上にある、この教会を建てるために、信徒はたくさんの労働奉仕をしたそうです。
子どもたちも、毎朝学校に行く前に、風呂敷に土を入れ運んだそうです。雨の日はその土を入れた風呂敷が重く、濡れた蓑を重くて着ることができなかったという話を聞きながらこの景色を見ると、より趣のあるものとなりました。

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2008年1月20日 (日)

■鹿児島 ザビエル書院

Kagosimal01 12月に教会とキリシタンの取材で鹿児島に行ってきました。
鹿児島教区のカテドラルでもあるザビエル教会には、ザビエル書院があります。
1995年3月に本会が鹿児島修道院の閉鎖するまでは、ここで宣教にあたっていました。今は信徒の方が宣教にあっておられます。
私たちが書院を訪ねると、温かく迎えてくださいました。今でも、私たちが書院をしていた時の本棚を使っておられると聞き、なんだかとてもうれしくなりました。
この書院でちょっとおもしろいものを見つけました。
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鹿児島教区特製グッズとでも言ったらよいのでしょうか、フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸像、ザビエル滞鹿祈念碑像、ザビエル像、それにザビエルとキリシタンで種子島に流されたカタリナ永俊尼の起き上がりだるまです。どれも、手作りの味のあるユニークなものばかりです。価格も1000円程度で、鹿児島の巡礼の記念にピッタリのグッズといったところです。
司教様もお薦めのグッズとか・・・。
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鹿児島を訪れられた際にはぜひ、ザビエル書院にも足を運んで、鹿児島ならではのご像をご覧になってください。

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2007年5月 7日 (月)

■上杉鷹山

 4月23、24日、殉教者たちの取材に、米沢に行ってきました。
 米沢といえば、上杉の城下町。ちょうど2009年のNHK大河ドラマで、上杉家の宰相で米沢城下創設の師ともいわれる直江兼続(なおえ かねつぐ)の生涯を描いた「天地人」が放映されることになったことから、上杉博物館では特別展が開催されていました。
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春日山林泉寺にある直江兼続の墓
 米沢は、山に囲まれた地で、冬は雪深いところです。けれど、私たちが訪れた時は、いつもより1週間ほど早く咲いた桜が満開。上杉神社や最上川べりと、どこに行っても満開の美しい桜が迎えてくれました。
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 上杉藩といえば、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物としてあげた名君・上杉鷹山(うえすぎ ようざん)が治めた地です。
Yonezawa05_2  鷹山は、1751年に日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれました。母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲の娘であったことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となり、重定の娘・幸姫(ゆきひめ)を正室としました。
 鷹山は17歳で、出羽米沢藩15万石の藩主となりましたが、藩の財政は火の車でした。鷹山は、藩の困窮を脱するために、藩政改革を押し進めて行きました。率先して倹約を行う鷹山を、上級家臣や老臣たちが反発し、大凶作が苦しめました。しかし、側室お豊の方などの良き理解者を得て、養蚕の奨励などの産業を推進して行きました。鷹山は、倹約だけではなく、学問を重んじ、農民の援助、福祉を重視し、開拓、水利事業などを行いました。生涯を藩政改革に注いだ鷹山でしたが、その改革が成功するのは、鷹山の晩年だったそうです。
 上杉博物館では、上杉鷹山シアターが設けられ、上杉神社にはいくつもの鷹山の銅像がありました。
 上杉家の御廟を訪ねると、「鷹山公」と書かれた墓前にだけ花が供えられていました。また、上杉家の奥方や子女、支候の廟所・春日山林泉寺では、奥方や子女の墓が並ぶ中、鷹山の側室お豊の方の墓前にだけ花が備えられていました。

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        上杉家御廟 鷹山の墓                     春日山林泉寺 お豊の墓
 米沢織や郷土料理など、鷹山の残したものは多く、今もなお米沢の人たちから深く愛され、尊敬されているということを感じました。
 鷹山の名言「成せばなる なさねばならぬ 何事も 成さぬは人の なさぬなりけり」は、鷹山の生涯そのものといえるのではないでしょうか。
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               鷹山の銅像                 春日山林泉寺 鷹山お手植えのしだれ桜

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2007年3月24日 (土)

■江戸の殉教地を歩く

 今年の11月23日、「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が、長崎で行われます。188名は山口、有馬、天草、雲仙、広島、大阪、米沢など、日本各地で殉教した人々ですが、その中に、江戸で亡くなった信徒・原主水(はら もんど)がいます。

 3月22日、キリシタン研究ひとすじの五野井教授のガイドで、江戸の殉教者たちを忍んで、関係する地を巡礼しました。

 出発点のカトリック高輪教会には、「江戸大殉教図」という絵があります。たくさんの群衆が見ている中、宣教師と信徒50名が火刑によって殉教しました。この中の3人の宣教師たちはすでに列福されていますが、このたび、一般信徒の代表として原主水が列福されることになりました。
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 殉教の碑の前で五野井先生の説明を聞く        江戸大殉教図

 殉教の地に近い高輪教会の、入口の左手には江戸大殉教の記念碑があり、地下には、江戸の大殉教についての資料が展示されています。イエズス会士が書いたイエズス会総長への1624年の年度報告書「日本年報」の中には、このときの殉教の様子が詳しく書かれています。「江戸大殉教図」を見ながらその報告書を読むと、当時の役所の残酷さから、人間の中にある悪の恐ろしさを感じました。また、殉教者たちの一致と信仰の深さに心が洗われる思いでした。

 高輪教会を後にして、処刑が行われた札の辻まで歩きました。東京駅方面に20分ほど歩くと、処刑地の背後にある小高い場所に出ます。済海寺の横にある駐車場から国道15号線を見下ろしたあたりに、街道に添って火刑のための50本の柱が立てられたそうです。

 道をぐるっと回って、国道15号線に出て、さきほど上から見た殉教の地に向かいました。札の辻の交差点から、150mほど品川方面に歩くと、三井ツインビル西館の高層ビルがあります。ビルの手前の広場を右に入っていくと殉教の碑へと導かれます。今は都教育委員会がきれいに整地して、記念碑が立てられています。
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高層ビルの前を右に入ると……右の画像の階段に続く   この上に碑がある

Dsc044961  長崎の列福式に心をあわせて、ここで列福記念のミサができたらいいな~と思いました。祭壇になるような大きな石と、記念碑をどこからでも見ることができる広い空間があり、大勢の人が集まることができるようになっています。まるでミサをするためにあるような空間でした。

 その後、JR田町駅から東京駅に向かい、キリシタン牢があった小伝馬町の十思公園、鳥越殉教地の浅草の鳥越
神社とカトリック浅草教会、キリシタン屋敷があった茗荷谷へと、歩を進めました。
 江戸キリシタンゆかりの地については、また“Laudate”でご紹介します。

◆カトリック中央協議会の「ペトロ岐部と118殉教者」のページ:
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/kibe_187/index.htm

◆“Laudate”日本キリシタン物語「江戸大殉教とその影響」のページ:http://pauline.or.jp/modules/time/index.php?page=article&storyid=51

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2007年2月 7日 (水)

■九州横断特急

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 2004年3月、熊本、鹿児島館に九州新幹線「つばめ」の開業したときの、在来線の変革で、特急「あそ」および急行「くまがわ」を統合する形で誕生した「九州横断特急」に乗りました。
 「九州横断特急」は、別府-大分-阿蘇-熊本-八代-人吉間を走行するキハ185系気動車です。指定車と自由車が一両ずつの2両編成の赤い車両で、女性の客室乗務員が乗っていますが、車掌が乗っていない「ワンマン運転」です。
 「森をイメージ」したと言うことですが、モスグリーンの座席に、荷物棚や肘掛け、テーブルなど、室内に「木」がたくさん使われていて、落ち着いた感じのする室内、運転席の横にデッキがもうけられ、景色をゆっくりと味わうことができます。
 しかし、この日は晴れていたのですが、靄(もや)がかかっていたため、残念ながら雄大な阿蘇の姿を見ることはできませんでした。
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 途中、客室乗務員の方が、「乗車記念スタンプカード」を希望者に配ってくれました。そのカードには、「九州横断特急」の他に、「いさぶろう・しんぺい」号、「特急はやとの風」のスタンプを押す場所がもうけられています。「九州横断特急」のスタンプを押すと、どうしても他の2つもと思ってしまいます。このカードを大切にとっておかなくては・・・。このカードの裏には、路線図や名所の絵も入っており、なかなかしゃれたプレゼントだなと思いました。
 途中、立野では、ほんのちょっとの間ですが、先頭車両が入れ替わるスイッチバックを体験できます。急勾配を登ったり、降りたりする際に折り返して運転されるのです。特急ですが、なにかゆっくりした感覚になりました。
 車体につけられた、ロゴマークもなかなかおしゃれで、別府から水前寺駅まで、3時間ちょっとの旅でしたが、のどかな旅を楽しむことができました。

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2007年2月 5日 (月)

■国見ふるさと展示館

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 列福を控えたペトロ・カスイ岐部神父のふるさと大分県国見町岐部を訪ねました。
 国道213号線沿いにある「ペトロカスイ岐部記念公園」には、海の方に向かって立つカスイ岐部神父の、勇ましい銅像があり、「世界を歩いた神父」の深く強い信仰を思い起こさせました。
 そして、その公園の隣には、国見町の「国見ふるさと展示館」がありました。この展示館は、明治初期に築造された庄屋屋敷を保存し利用したものでした。一番の庄屋屋敷だったとあって、とても大きな屋敷と、美しい日本庭園がある風情のある展示館です。
 入って最初の部屋は、カスイ岐部神父に関する資料が展示されていました。神父が歩いた道や年表はもちろんのこと、祭具なども展示されていました。

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 また、入るとすぐに係の方が、カスイ岐部神父を紹介した映像を流してくださいました。郷土の歴史研究家の方が、とてもわかりやすく説明してくさっていて、カトリックをあまり知らない方でも、カスイ岐部神父の偉大さを知ることができるのではないかと思いました。
 他の部屋には、民俗文化コーナー、国見出身の画家たちの描いた絵画などが展示されていました。入場料は200円と高くありませんから、「ペトロ・カスイ岐部記念公園」に巡礼なさった際には、お勧めの展示館です。
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 訪れた日は、とても寒かったのですが、展示館の向かい側にある食堂とお土産物の店の前で写真を撮っていると、中から「入ってお茶でも飲んで行ってください」と声をかけられました。食事をする予定もなかったので、断ったのですが、「寒いからせめて暖まって」と勧められて中に入ると、温かな席に、熱いお茶を準備してくださいました。素朴な店の中では、近所のご婦人たちが料理の下ごしらえ中でした。ここでは、名物タコカレーに、手打ちうどん、赤米だいふくや城山まんじゅうなどがいただけるようです。お茶をごちそうしていただいたからではありませんが、時間があればぜひこちらにもお寄りください。

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2007年2月 3日 (土)

■臼杵の石仏

Usuki1  大分県臼杵市には、大友宗鱗(おおともそうりん)によって築城された臼杵城跡があります。この城跡を取材したついでに、ちょっと足を伸ばして、国宝の指定を受けている臼杵の石仏に行ってきました。
 「臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)」とも言いますが、自然の岩壁や露岩などに、60余体の仏像を彫り造ったものです。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫られているため、風化しやすく、長い年月の間に亀裂を生じたり、剥落するなど傷みがひどくなっていたため、1980年から1994年まで14年間にわたり、保存修理工事が行われたそうです。
 以前ここを訪れたとき、最も有名な「大日如来像」の仏頭が落ち、その像の前に頭部が置かれていたのですが、今回は、その仏頭は修復されていました。また、どの石仏にも、雨の浸食から守るためのりっぱな屋根がもうけられていました。
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 私たちが訪ねたときはあいにくの雨。しかし、この屋根のおかげで、ゆっくりと石仏を見学することができました。今年は温かいせいか、参道には菜の花が咲いていました。
 宗教は違っても千年の風雨に耐え、人びとのひたむきな信仰のあかしを今に伝える石仏を見ていると、腹の底から動かされるような重みと感動を覚えました。
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2007年2月 1日 (木)

■武家屋敷跡

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 九州の小京都とも呼ばれる竹田市。中川氏の居城・岡城の裾に、今も土塀が続く町並みが残っています。
 かつて中級武士たちが住んでいた殿町は、現在も武家屋敷があり、「竹田創世館」という休憩所と案内所を兼ねた屋敷があります。私たちが訪れたとき、ちょうど閉まるところで、残念ながら中に入ることはできませんでした。
 この近くには、江戸時代の文人画家、田能村竹田の居宅「旧竹田荘」や、瀧廉太郎が、12歳から14歳までの2年4か月ほどを過ごした「瀧廉太郎記念館」、絵画展や写真展などを行うギャラリー「竹田市民ギャラリー水琴館」などがありました。
 この武家屋敷を通りぬけると岡城の崖の下には、キリシタン洞窟礼拝堂があります。そこには、神父たちが使った旧井戸や住居址の洞窟が残っています。武家屋敷のすぐ近くにキリシタンの遺跡があることを考えると、中川氏の家臣の中にも、信徒がいたのではないかと想像してしまいました。
 武家屋敷は「歴史の道」と名付けられ、故郷の歴史を大切に守りながら、生きている竹田の人たちの思いを感じました。
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2007年1月29日 (月)

■岡城址

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   春高楼(こうろう )の花の宴(えん)
    巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
    千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし
    昔の光いまいずこ ♪

 瀧廉太郎の名曲「荒城の月」は、中学校の音楽で学びご存じのことでしょう。
 この曲は、土井晩翠が宮城県仙台市の青葉城址や福島県会津若松市の鶴ヶ城址をモデルに詞を書いたとされています。そして、滝廉太郎が故郷大分の竹田の岡城趾を思いながら曲を書いたとされています。
 キリシタン遺跡の取材で大分県竹田市に行き、この有名な岡城址を訪ねました。
 岡城は、文治元(1185)年、緒方惟義(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したといわれる山城です。
 通常は、城跡を見るために、朝9時から夕方5時までは登城料として高校生以上300円が必要ですが、私たちが城跡に着いたのが夕方の5時。登城料は必要ありませんでした。しかし、親切な管理の方が岡城の歴史が書かれた資料をくださいました。
 それによると、南北朝時代の建武元(1334)年、南朝方に属した大友氏の一族である志賀貞朝が大がかりな改修を行い岡城と名付け、居城としたそうです。
 天正14(1586)年から翌15年にかけての豊薩戦争では、島津の大軍をこの岡城で攻守したそうですが、文禄2(1593)年の文禄の役で失態により大友氏が所領を没収されると、重臣・志賀氏も岡城を去りました。その後、摂津国から中川氏が移封され、大規模な修築を施し、居城として、明治維新まで岡藩7万石が続くこととなりました。
 山城と言われるだけあって、かなり急な階段がいくつもありました。二の丸址には、瀧廉太郎の銅像があり、ひっそりとした風情のある城跡でした。
 桜の木がたくさんあり、春はきっと花見に大勢の方が訪れることでしょう。
 帰り頃には、大きな美しい夕日が山の間に沈むころでした。
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              お土産物屋さんの横にあった「記念写真にご利用下さい!」という看板

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2006年12月 8日 (金)

■聖フランシスコ・ザビエルの足跡

 1549(天文17)年、43歳のザビエルは鹿児島に上陸しました。
 ザビエルは平戸で宣教した後、都を目指し、11月初旬山口を訪れ、領主大内義隆に引見されました。12月山口を発ち、京都に向かいましたが、そのころの京都は、応仁の乱によってすっかり荒廃しており、ザビエルの宣教は許されませんでした。ザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたたび山口での宣教を試みました。
 ザビエルが山口に滞在したのは、4カ月でした。しかし、この間に約500人が洗礼を受けたと言われています。
Yamaguti1  山口には、今もザビエルの宣教の足跡が残されています。
 そのひとつが、山口カトリック教会です。山口教会の1階には、クリスチャン記念館が設けられています。ここには、ザビエルの日本における足跡と、日本におけるキリスト教の歩みが紹介されてます。 このクリスチャン記念館では、火災で焼失したなつかしい旧「サビエル聖堂」の画像も見ることができます。Yamaguti2
 この聖堂から車で10分くらいのところに、ザビエル記念公園があります。ザビエルが山口で宣教した際に、大友義隆が住居として廃寺であった大道寺を与えました。この公園は、大道寺跡といわれています。公園の中央には、ザビエルの肖像がはめ込まれた記念 碑が建てられています。1926(大正15)年に高さ10メートルに及ぶ記念碑が建てられましたが、第2次世界大戦の折供出されたため、現在の碑のザビエル肖像の銅板は1949(昭和24)年ザビエル来山400年祭を機に、作成されたものです。
 この公園のすぐ近くには、大内氏館跡に建てられた毛利家の菩提寺である龍福寺があります。龍福寺の参道には、実際の場所Yamaguti3ではないようですが、「ザビエルの布教の井戸」がありました。
 山口の街では、一日何回も山口カトリック教会(サビエル聖堂)の鐘の音が鳴ります。こ の鐘の響きを聞いていると、日本にはじめてキリストの教えを伝えたザビエルの声が今も聞こえてきそうな、山口はどこかそんな趣のある街でした。
 今年は、ザビエルの生誕500年、みなさんもザビエルの足跡を訪ねてみませんか。

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2006年12月 2日 (土)

■萩教会 モラーレス神父との出会い

Hagi001_2  “Laudate”「教会をたずねて」の取材のため、萩教会を訪問しました。萩教会の主任司祭は、イエズス会のモラーレス神父です。
 モラーレス神父は、電車の都合で予定より半日早く訪問した私たちを、寛大に迎えてくださいました。
 教会の事務所に入ると、立派なコンピュータが入っていました。教区の援助で、教会に入ったということです。さらに別の部屋には、すでに使われなくなっていたコンピュータをもらってきて、自分でフォーマットして信徒のために準備しておられるそうです。しかし、高齢の信徒の方たちが多く、そのコンピュータがなかなか利用されていないと話してくださいました。ハードには強いと言われるだけあって、休暇で帰ったときに妹さんの家にスカイプを設定してきて、今はスペインの妹さんとスカイプで話したり、インターネットで説教の資料を探したりして、ネットをフル活用しておられました。
Hagi002 多くの人たちが利用しているインターネットを、宣教のために使うことは、とても大切だと思うと熱心に語ってくださるモラーレス神父の年を聞いてびっくり、今年80歳になられたそうです。
 萩教会には、前の主任司祭がはじめられたホームページがありますが、モラーレス神父はこのページをどう継続していくか悩んでおられました。「教会のホームページをやっていくためには、個人でやっていってはいけない。グループでやらなくては……」と継続や内容バランスなども考えておられるようでした。
 80歳になられても、信徒のことや宣教のために力を尽くしておられるモラーレス神父の姿に感動し、頭が下がる思いでした。

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2006年11月28日 (火)

■松江の街を歩いて

Matue001_2  研修会に参加するために、松江に行きました。松江と言えば、宍道湖とお城しか知りませんでしたので、ちょっと時間をみつけて街を散策しました。
 松江は、45分くらいかけてゆっくりと城の堀を回る堀川遊覧船が有名で、冬の間はこたつ船が運航します。城のまわりには、観光の名所も多く、秋の美しい紅葉をめでながらたくさんの観光客が、船遊びを楽しんでいました。
 Matue002_3遊覧船を見学しながMatue003_2ら、堀に沿った道を歩くと、武家屋敷や小泉八雲の資料館や旧居がありました。小泉八雲の旧居を訪ねてみました。
 ご存じのように、『雪女』、『耳なし芳一』怪談でよく知られる明治の文豪小泉八雲、ラフカディオ・ハーンは、この地に英語の教師として赴任して、セツ夫人と出会い結婚しました。日本の文化を深く愛した八雲は、「武家屋敷」を願って借り、ここに暮らしたそうです。
 中に入ると、武家屋敷とはいえそれほど広い家ではなく、部屋は4部屋ほどしかありませんでした。しかし、今もよく手入れの行き届いた自然の山水を絡めた庭が三方にあり、八雲がもっとも気に入っていたのは、三方の庭を望む部屋だったそうです。
 確かに、この部屋に座り庭を眺めていると、普段のあわただしい生活を忘れ、自分をゆっくり見つめることができます。ここで、庭を見ながら日本の民話や寓話を書き留める八雲の姿が目に見えるようです。
Matue004  意外だったのは、松江を深く愛したと言われる八雲が、実際には松江に1年ほどしか住んでいなかったのを知ったことでした。それでも、八雲はこの松江の人たちから、「ヘルン先生」と言われ、今も親しまれ、この街に生きています。相思相愛と言ったところでしょうか。
 そして今回、小泉八雲に触れることで、私たちが忘れかけている日本の文化のすばらしさとその尊さを思い出したように感じました。

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2006年11月24日 (金)

■永井隆記念館

  長崎で被爆し、世界に平和を訴え続けた永井隆博士のふるさとが、島根県であることをご存じですか。
Nagai001 永井博士は、松江で生まれ、雲南市三刀屋町(みとやちょう)で育ちました。その三刀屋町に、永井隆記念館があります。はじめて、この記念館に行ってきました。
 1950(昭和25)年、まだ博士が存命中に、博士の活動に感嘆した同級生や知人が中心になって「飯石如己の会」が設立され、その人たちから博士の記念碑をという声が上がり、銅像へ、さらには記念館へと発展していきました。(三刀屋町は、2004(平成16)年11月の合併によって、雲南市となりましたが、それまでは飯石郡三刀屋町と呼ばれていました。)そして、全国からの寄付によって、1970(昭和45)年10月にオープンしました。
Nagai002_3  永井博士と言えば、カトリック信徒として知られていますが、この開館には宗教色はありません。雲南市の「永井博士の平和への思いを伝えたい」という願いから、市によって運営されています。
 記念館は、博士のデスマスクや小学校の卒業証明書などをはじめ、日本各地から寄贈された博士の写真や手紙、はがきなどで埋め尽くされています。
 館長の名原氏によると、寄贈によって展示品が増え、建物を少し広くしたそうですが、なかなか、ゆとりを持った展示ができないとのことでした。とは言え、如己堂に倣って造られたのか、子どもたちのために図書室がもうけられ、私たちが訪れたときも、隣町の中学生たちが、平和学習のために訪れていました。
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 来館者は、雲南市の方たちより、その他の地域、特に広島や松江の方が多いとのことでした。地域の子どもたちの平和学習の一環として、小学校6年生が中心に来館しているそうです。
 雲南市との合併を前に、2004年6月18日、永井博士に「三刀屋町名誉市民」が贈られ、「永井隆平和賞」が設けられました。
 ホールには液晶モニタが設置されていて、永井博士の生涯や活動をわかりやすく紹介するビデオを見ることができます。
 博士の“如己愛人"の精神と平和への思いを伝えたいとの願いが込められたこの記念館を訪ねて、平和の思いと平和の尊さを子どもたちに伝えることの大切さを改めて考えさせられました。Nagai005_1 Nagai006_2

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