« ■ゴーヤ成長日記 その4 | トップページ | ■「司祭年」はじまる。 »

2009年6月16日 (火)

■ 幻の安土城

Adutijou01_2 安土を訪ねた時、安土城跡に行ってきました。
1576(天正4)年に足かけ7年の歳月をかけて完成されたこの城は、本能寺の変で信長が死去した後、1582(天正9)年に天主・本丸等が焼失し、その3年後、豊臣秀次の八幡城築城に伴い、廃城となりました。 
信長が自らの思想を表現した幻の安土城を、「信長公記」や「安土日記」、イエズス会の宣教師の記録、発掘調査によってわかったことから、その姿を知ろうと研究が進んでいるようでした。安土町立城郭資料館には、安土城のひな形が置かれていました。そのひな形は、真ん中から左右に開くようになっていて、その内部まで見ることができました。
Adutijou02_2 資料によると、安土城の外観は、屋根5層廻縁望楼型で、地上6階、石蔵の地下のある7階建て。その中央には、4階までの吹き抜けの空間に、宝塔が設けられていました。最上階は金色で、下階は朱色の八角形をしており、内部は黒漆塗りで、内部は、華麗な障壁画で飾られていたとされています。
その安土城跡を訪ねると、安土山(標高199m)が一つの城でした。大手口の入口には杖が置かれており、天守閣跡までには405段の石段を登るとのこと、しかしカメラがあるので、助っ人に杖を持つこともできず出発しました。最初は、「ここが羽柴秀吉の屋敷跡だ」、「こっちは前田利家だ」などと言いつつ元気があったのですが、石段の高さや幅がバラバラで、歩きづらいし、けっこう急な石段もあり、ゆっくり登っても汗だくになり、カメラが重くてしかたなくなってきました。
Adutijou03 Adutijou04

二の丸にある信長廟までくると、あと少しという気分からか随分足取りも軽く登ることができました。
Adutijou05_2 天守閣のあった場所に着くと、西湖が下位に広がり、今までの疲れが一挙に飛んでいくようなすばらしい景色です。信長も、幻の安土城の天守閣からこの眺めを見て、天下統一について考えたのかなと思いました。帰りには、少し遠回りをして、安土城と同じ時に建てられて重要文化財の三重塔の方にまわりました。摠見寺本堂は焼けてしまいましたが、三重塔は残っています。あまり手入れがされていないようでしたが、長い時代を見つめてきた趣を感じました。
安土城は、いろいろな宗教の教えなどを襖絵などに描き、戦国の世にありながら戦いに関するものを入れていなかったと聞きました。信長は、安土の城に自らの理想郷を造ろうとしたのでしょうか。
Adutijou06 Adutijou07

         織田信長公本廟                       天守閣跡

キリスト教の宣教師を喜んで迎え入れ、城下町にはセミナリオを造ることを許した信長。安土を訪ねて、戦国を駆け抜けた織田信長という人についてもっと知りたいと思いました。
Adutijou08 Adutijou09

|

« ■ゴーヤ成長日記 その4 | トップページ | ■「司祭年」はじまる。 »

コメント

信長は、自分が館の主である、という意味で天主閣と名付けたというのが、普通の理解と考えていました。真実は分かるすべもありませんが。

投稿: | 2009年6月23日 (火) 06時44分

 安土城、僕も若い頃、夏の暑い日にひとり訪ねたときのことを懐かしく思い出し、そうだった、そうそう、と勝手に相づちを打ちながら楽しく拝見しました。
 ただ、ボクのキオクがタダシければ、当地の案内には「安土城天主閣跡」とあり、安土城に限っては「天守閣」ではなく「天主閣」と書かれたと思います。
 そもそも「天シュ閣」なるものが日本の城に備わったのは安土城が最初で、信長はそれに意味を込めて「天主」の字を当てたのでしょう。
 では「天主」とはなにか。当時の状況からして「デウス」を指すしかないでしょう。中国語でカトリックはいまでも「天主教」ですしね。
 天主閣は以後、日本のお城には欠かせないものとして取り入れられますが、さすがに「天主」はヤバいので天下を見守る「天守閣」にすり替えられたのでしょう。
 僕はあれは信長の個人的なチャペルだったと勝手に確信しています。あれほどの性格で、人に頼らずあれだけのことをやり遂げた人です。宣教師たちをブレイン、アドバイザーとし、きっと「天主閣」でひとり瞑想し、天主の加護を祈りつつ、楽市楽座、天下布武のパックス実現を読め見ていたのではないでしょうか。
 そうそう、「誕生日を祝う」ということを宣教師から知り、最初に実行したのも信長でしたね。
 それも日本では彼の死とともに根付くことはなく、日本で誕生日を祝うようになったのはここ数十年のことですよね。
 お正月に全国一斉に年を取る「数え年」が普通でしたから。
 だから今でも誕生祝いというと子供、若者限定みたいな傾向があり、定番の歌はおぼつかない英語で歌う、ハッピバースデー・ツー・ユーですよね。
 信長は洗礼こそ受けなかったものの、キリスト教信仰には限りなく近かったのではないかと思っています。

投稿: 野村祐之 | 2009年6月21日 (日) 08時12分

いつも「キリシタンゆかりの地をたずねて」を拝見しております。ところで、登場人物は、聖職者を別にすれば、当時の支配階級である武士が中心ですね。そして、迫害、殉教、棄教によって基督教徒は表面的には根絶され、地下に潜行し250年にわたり、パードレを待ち続けたのは、帰農した武士を含め農民の人達だったようです。
彼らは、真面目に懸命に働いたものの、年貢米をきちんと収めると、カンコロしか口に入れることができないような状態だったといわれています。そして、明治に入ってから、更なる迫害に耐えねばならなかった。そのような流れと、明治以降のいわば都市型のカトリックが必ずしも結びつかないのです。教会にまだ慣れていないからかもしれません。

投稿: ヨセフ | 2009年6月18日 (木) 17時17分

 歴史的にアジア大陸の文化の川は東へ東へと流れ、アジアの極東の日本は、八百萬の神々の坩堝となりました。それが日本文化の根底にあるようです。よって現代の日本の宗教は、民族宗教のアミニズムや神道をはじめとして、鎖国以前に中国経由で流入した仏教、ヒンズー教(密教として)、道教、儒教。そして、明治以後に西洋より流入した西洋哲学等が複雑に絡み合っています。
 砂漠で生まれた一神教のキリスト教(三位一体)が根を生やすには、日本はあまりにも精神的に豊潤過ぎる風土なのかもしれません。つまり、日本人は、「神に飢える感覚」が希薄なのでしょうか?
 しかしながら、私たち日本人信徒は、戦国時代にカトリックの宣教師により入信以来、徳川幕府のキリスト教・禁教(邪教)政策で、厳しい迫害・弾圧の中で「神に飢え(仕え)」、7世代以上の長きに渡り、密かに信仰を守り、耐え生き抜いた、世界に誇れる日本の信徒「隠れキリシタン」の歴史的流れを断ち切ってはいけないと思います。・・・そこに日本文化に花開くキリストの光が、垣間見える気がします。

投稿: ヨハネ | 2009年6月18日 (木) 01時28分

西へ 西へ これが信長の信条と聞いております

美濃国 稲葉山城(岐阜城)下
私の父の実家には 家系図があります
重臣ではありませんが信長の家来でした

先祖もフロイス様に安土城でお会いしたのかしら?

私 西語を専門に学び
10年前に受洗しました!


投稿: うめ | 2009年6月17日 (水) 18時59分

歴史に"if"は無意味かと思いますが、信長があのまま権力を維持できていたら、鎖国のような後ろ向きの政策はとらなかったと考えることは出来ると思います。ただ、信長が宣教師の活動を野放しにしたはずはなく、ある時点で何らかの制約を加えるとか、場合によっては衝突、弾圧も十分ありえたと考えられます。要は、信長の天下支配に抵触するかしないかという合理的な基準で判断されたに違いない。
現代について申せば、日本伝統の文化とまでは言わずとも、日本の社会にもう少し「花咲く」には、我々キリスト者は如何にあるべきか、ということを先輩諸兄姉に是非教えて頂きたい。

投稿: y | 2009年6月17日 (水) 18時38分

時々、信長が生きていたら歴史はどうなっていただろうと考えるのが好きです。
ある人は、日本が南アメリカやフィリピンなどのように、西洋の植民地になったたどうなんて、言いますが私はそうは思えません。
日本人は、イギリスなどのような海洋国になっていたに違いない・・・。


先週タイのアユタヤに行ってきました。
山田長政のような人もいました。
信長さんのことですから、
鎖国だけはしなかったと思います。

でも、キリスト教の布教をあのまま許していたかどうかは、疑問です。

投稿: satoko | 2009年6月17日 (水) 06時24分

信長は、偽善を嫌い、またそれを見抜く能力がきわだち、
権力欲にどっぷり浸り、机上の空論を説く
当時の仏僧たちに嫌悪感をいだき、
比叡山の焼き打ちまでやりました。
しかし、宣教師たちの、命をも神に差し出している
覚悟と潔癖さに、またその博学さに感服していたみたいです。

信長がもう少し長く生きたら、
日本の伝統文化に、もっとキリスト教が根付いたかもしれません。

これから将来、
日本の幽玄な伝統文化のなかに
キリストの花々が咲きほこることを祈っています。

投稿: ヨハネ | 2009年6月17日 (水) 02時51分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■ゴーヤ成長日記 その4 | トップページ | ■「司祭年」はじまる。 »