■ 後藤寿庵祭
田植えも一段落した5月25日(日)、カトリック水沢教会主催の「後藤寿庵祭」が行われました。
昨年の市町村合併により、これまでの「水沢市」が「奥州市水沢区」となって初めての「後藤寿庵祭」でした。
この日は朝から雨で、いつもは寿庵廟前の広場の会場は「胆沢平野土地改良区」の建物に変更されました。
通常、お祭りと言うと、雨が降ると「あいにくの雨模様で……」などと、あいさつし合うのですが、さすが「寿庵祭」と感心したのは、「この雨は寿庵さまに似つかわしいですね」とか「(静かに降る今日のような雨は、)稲のために、いちばんいい雨ですね」とお互いがあいさつなさっていたことでした。
例年、春の祭りは教会主催、秋の祭りは地域主催で行われる「寿庵祭」ですが、150人の参加者の内、約50人が地域の方々で、共にミサに参加し、寿庵についての講演を聴きました。
カトリックの最大の祭りは「ミサ」です。午前10時から、平賀徹夫司教の主司式によるミサが始まりました。
ヨハネ福音書の「友のためにいのちを捨てること、これより大きな愛はない」という箇所が読まれた後、つぎのような説教がありました。
「私たちは寿庵祭を開いて、水沢の地に灌漑工事をし、農民を助けたという寿庵の大きな業績を顕彰するだけではありません。彼が人々のために自分の命を捨てるほどに愛したという、その愛を顕彰するのです。
今年、11月24日にペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われますが、ペトロ岐部司祭は迫害の嵐が吹きすさぶ日本に帰り、命を捨てるより大きな愛はないことを示しました。彼は、水沢の信者を助けていましたが、1633年水沢で捕らえられ、翌年江戸で殉教した人です」。
説教の後、田畑と参加している大地の人々に祝別が、香と寿庵の十字架と聖水で行われました。しかし、雨のため、田畑に向かって窓からの祝別でした。
このような祈りが唱えられ、祝別されました。
「全能、永遠の神よ、あなたは忠実なしもべ後藤寿庵を、胆沢平野の偉大な開拓者として私たちに与えてくださいました。私たちは今日、後藤寿庵ゆかりの地に集い、心を合わせてあなたに祈ります。どうか、農家の一人ひとり、作物の一つひとつの命を守り、育み、豊かな実りをお与えください。そして、その実りが私たちの心と体の糧となり、一人ひとりの命の輝きが増していきますよう、私たちの主、イエス・キリストによってお願いいたします」。
その後、土地の祝福を主に願い、落雷、暴風雨、水害、冷害、干ばつ、火災などの災害から守られるように、祈りをささげました。
来賓のあいさつでは、奥州市長など4、5人が祝詞を述べられましたが、どの来賓も、寿庵を深く尊敬して、寿庵のおかげで今日の我々があるという感謝の心が感じられました。特に、寿庵が1612年に、福原の地に来られたことを記念し、4年後には400年祭を企画しているという話も紹介されました。
講演は、郷土史家でもあり、胆江日々新聞社取締役編集長・安彦公一(あびこ きんいち)氏。
「今日は、歴史的にハッキリしていることだけをお話しいたしましょう」、と石母田文書と言われる中に残されている寿庵について書かれている4通の手紙を中心に話されました。
当時、伊達藩は、四公六民(収穫物の4割を税金に納め、6割が農民の取り分)が実施されたいましたが、水沢では寿庵がその税をさらに軽減しており、寿庵の後に赴任した横沢将監が、「どういたしましょうか」と城主である石母田大膳に、手紙で尋ねています。
どんなに、農民のことを思っていたかがわかります。当時、紀伊藩では、八公二民で、民は苦しい生活を強いられていた例もあるのです。
さらに、寿庵は胆沢平野の灌漑工事のために、お金が必要だったのですが、税金を高く取り立てようとは思わず、自分が方々から50両のお金を借金していました。ところが、迫害が激しくなり、人々が尊敬する寿庵を逃しました。そのため、50両の借金がそのままになっていたのですが、ある夜、50両を持たせて、寿庵の後任の横沢将監に届けています。どこかで、寿庵が50両を得て、返却したのです。
たぶん、これは寿庵が鉱山で働いて得たお金ではないかと想像されるそうです。その鉱山は、大籠あたりの鉱山かもしれないとのことでした。
すべての行事が終わり、雨のちらつく中、寿庵廟や、ペトロ岐部が逮捕されたクルスバ墓地とその周辺を歩いてきました。クルスバ墓地は、寿庵の時代には、キリシタンの墓地だったのですが、迫害の時代になり、お寺の墓地となり、名前だけは「クルスバ墓地」として残っているものです。この近くに流れる小川に架かる橋の上で、ペトロ岐部が逮捕されました。彼はそこから江戸に送られ、殉教したのです。
寿庵たちが、福音を信じるものたちの地にしようと、「福原」と地名を変え、灌漑工事に励み、「アラビアの砂漠」に似ているとカルバリオ神父が述べたと言われる胆沢平野を現在の穀倉地帯に変えたのでした。
寿庵が逃がされた時、カルバリオ神父は秋田の鉱山に逃れ、そこにいる多くのキリシタンたちを助けていましたが、ついに逮捕され、仙台に送られ、広瀬川で殉教したのでした。
こうして、牧者のいなくなった水沢の地に、ペトロ岐部が信者に秘跡を授け、羊の世話をするためにやってきて、働いていたのですが、クルスバ近くの橋の上で、とうとう逮捕されてしまったのです。









































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