■平戸まち歩き1
ご招待で、「平戸・佐世保モニターツアー」に行ってきました。
平戸は、フランシスコ・ザビエルも鹿児島に滞在した後、訪れています。当時、平戸にポルトガル船が入港し、ザビエルは手紙を受け取るために訪れたと言われています。
また、その後、オランダ商館とイギリス商館も開設され、長崎の出島ができる前に世界に開かれた港町だったそうです。そのため、豊かな歴史の足跡が町のいろいろな所に残っています。
寺院と教会が一枚に収まった平戸の写真は、こんな歴史の一面を見せてくれます。
まず、平戸ザビエル記念教会にバスで行き、そこから坂をくだりながら、「平戸まち歩き」を楽しむことになりました。
山の一番上にあるカトリック教会、その下に松浦家の菩提寺があり、さらにその下に寺院があります。現在は城の空堀跡に石畳が造られ、道となっています。風情のある坂道を下って行きながら、上を見上げると、寺院と教会の屋根が重なりあい、なんとも不思議な美しい景色です。
なぜこんな景色となったかについて、おもしろい話を聞きました。
昔は殿様がなくなると、近臣は殉死するのが通例でした。平戸を治めていた松浦藩の28代隆信(宗陽)には、浮橋主水(うきはし もんど)という家臣がいました。彼は、隆信に非常に寵愛されており、「殿が死んでは、生きていくことができない」といつも言っておりました。しかし、1637年隆信が亡くなっても、旧慣に従って当然殉死するどころか素知らぬ顔の浮橋主水を見て、平戸の人々は「キラズ(切らず)主水」と言い、嫌いました。すると主水は、隆信の母メンシア松東院がキリシタンであったため、1639年、徳川幕府に「平戸は切支丹大名である」と密告しました。浮橋主水事件です。
そこで、幕府は江月和尚をキリシタン検問使として平戸に派遣しました。松浦家の懇意な間柄であった江月は、寺を建てさせ、松浦家が、キリシタンでないことを幕府に証明しました。浮橋主水は伊豆に流罪となり、この事件は終わりました。
隆信の跡を継いだ鎮信(法印)は、松浦藩が切支丹でないことを証しするために、平戸が島であったため、港からよく見える場所にいくつも寺を建てました。また、切支丹に対してきびしい弾圧を行いました。
一番上に教会があるのは、何も寺院の上に教会を建てたかったわけではありません。平戸のザビエル記念教会は、1931(昭和6)年に献堂されました。当時の早坂司教は、宗教が自由になった後この地で宣教を続けたパリ外国宣教会の宣教師たちが、丘の上のよく見える場所に教会を建設したことに倣い、平戸の町にも、山の上のよく目立つ場所に建てることを考えました。そして、墓の上の地であるために、建物が建てられなかった現在の教会の場所が、信徒の畑であったため、その地を譲り受け、教会を建設したのだそうです。
坂の上にある、この教会を建てるために、信徒はたくさんの労働奉仕をしたそうです。
子どもたちも、毎朝学校に行く前に、風呂敷に土を入れ運んだそうです。雨の日はその土を入れた風呂敷が重く、濡れた蓑を重くて着ることができなかったという話を聞きながらこの景色を見ると、より趣のあるものとなりました。
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コメント
私も、平戸教会の写真は見たことがあります。
ひらんどなどと言うのではなかった
でしょうか?
古い時代にキリシタンでいること教会を建てる
ことの大変さを改めて確認しました。
投稿 しほみ | 2008年3月17日 (月) 18時14分
平戸の写真でびっくりしました。
平戸は私の父祖の地で私自身も小さいころ暮らしていました。
学校の写生は決まって天主堂を書きました。尖塔の形を丁寧に書いた思い出があります。
キリシタン殉教の地ねしこの浜辺も美しいところです。
ありがとうございました。
投稿 まゆみ | 2008年3月17日 (月) 10時02分
今日は信徒発見デェー そして私のバースデェー
大浦のマリア様には数回お目にかかれましたが
平戸は一度も訪れた事がありません
11月に長崎へ行けれたら 是非訪れたいです!
投稿 | 2008年3月17日 (月) 08時13分
こんばんわ。
平戸の教会めぐりをしたことがあります。
とっても懐かしい写真です。
あちらこちらに、キリシタンの悲しい歴史がいっぱいでした。
松浦家の話も哀れですね。でもそうして家を守ったということでしょう。
これからは平戸も良い季節ですね・・
どこか旅行に行きたくなりました。
投稿 里子 | 2008年3月16日 (日) 22時41分