■「そばを通り過ぎようとされた」
今日の福音(マルコ6.45~52)では、湖の上を歩くイエスと、それを見て脅える弟子たちと
のやりとりが描かれています。
湖の向こう岸に渡るために舟に乗った弟子たちは、逆風のために進むことができずにい ま す。夜が明けるころ、その姿を見たイエスは、湖を歩いて弟子たちのところまで来ます。そして舟のそばを通り過ぎようとされます。
一晩中、舟を漕いで疲れた弟子たちは、もうろうとしていたのかもしれません。ねぼけた目に映ったのは、風の中、湖の上を歩いて近づいてくる人でした。「ええっ、何だ? 幽霊か? ワァァ! 助けてくれぇぇ!」となったのでしょうか、「大声で叫んだ」と書いてあります。
それにしても思うのは、イエスが「通り過ぎようとされた」ということです。どういうことなのかしら……と思いました。弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたから」、イエスが湖の上を歩くのも、イエスが舟に乗ったら強い風がおさまったことも理解できませんでした。
エマオに向かう2人の弟子たちが、イエスがいっしょに歩いてくださっていてもイエスだとはわからなかったようなように、わたしの日常生活の中でも、「イエスがそばを通られる」ことがあるかもしれません。そのとき、「あっ」と感じることができるかどうか……。神の呼びかけはささやかです。神の働きを受信する心のアンテナを敏感にしていたいなと思いました。
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コメント
私は、つい弟子たちの気持ちに焦点を当てて読んでいました。あまりにも近い気がして~~~。
シスターの仰るとおりアンテナを立てなければと思います。
投稿 しほみ | 2008年1月11日 (金) 23時11分
今年も宜しくお願いします。
イエスさまがそばに来て下さっても気がつかない・・確かに、弟子たち不思議ですね。いつも見慣れているはずなのに・・
お正月にちょっと身体を壊して、パソコンにも興味を無くしておりました。身体が痛いときこそ、祈りは必要なのに、自分の中で、苦悶していました。
こんな状態こそが、試される時なんだなあと思いました。見えても見ていないということかもしれません。
イエスが見えないのは、まさに私だったと思い知られれる箇所です。
どんな時もそばに居させて下さい・・・と祈りました。
投稿 里子 | 2008年1月10日 (木) 16時47分